《犯人とされて》
○家から連れ出された少年は、たったひとりで大人たちからの圧力と向き合わされた。初めから「お前がやったのだ。」という目・言葉・態度しか彼には向けられなかった。決めつけ、それ以外のことは受けつけない態度や言葉を向けられて、いつまで少年(子供)が“ひとりで”耐えられるのか。何を言おうと取り合ってはもらえない。何を言っても否定される。受け入れてはもらえない。自分はどうすることもできない。絶望と恐怖心は、少年の心にどう作用するのか。「ここから逃げたい(助けて)。」という思い。そしてそれすら思えないほど心が圧迫された時、少年は自分の心を失ってしまった。正しくは少年に憑依していた霊が心のほとんど全てを支配することになったのである。少年は逃げたかったし、絶望と恐怖は“頭を真っ白にした”のだから。少年の心の領域を憑依霊が占めてしまったのである。
ここからは「少年」は「少年」ではなくなったのだ。“人が変わった”とか“とてもあの人だとは思えない”という言い方をあなた方はする。そして実際に、それが彼の身にも起こったのである。ただ、彼の心のほとんどを占領した別の「人格」は、もともと少年に憑依していた霊であったため、“全くの別人”のように“突然変わった”のではない。接している警察官にはそれらのことが分かるはずもない。
○しかしこれは「多重人格」の起こる仕組みと同じなのである。多重人格とは、ひとつの肉体に、幾通りもの“人格”が存在する。もともとの「その人」の心・意識を追いやって、幾人もの人間がそこに現れる。男女の別も、国籍も、性格や癖もさまざまに。その悩みを抱えた人々はかなりの数にのぼる。そして彼らに「共通のもの」として幼児期の虐待(あるいはそれに近いもの)がある。彼らはその状況にある時、逃げたくとも逃げられない。そんな目に遭わされている自分を嫌だと思う、そんな目に遭わされている自分はいなくなってしまえばいいのにと思う。そうでなければ、そうされている体から意識的に“気持ち・心”を離して別の何かに集中する。それは物でも・場所でも、何でもいい。とにかく自分の体(痛めつけられている)と心を離すのだ。そうすれば苦痛を忘れられる。つらい思いから逃れられる。いやな自分の姿を見ないで済む。これは、彼らの心が、自分たちを守るための、必死の手段なのだ。
体と心との間に隙間・空白域ができた時、そこに憑依霊が入り込む。「心」は限定されるものではないのだから、隙間・空白域には幾人であろうと入り込むことは可能なのである。入り込む霊の心はさまざまである。地上時代に乱暴だった者、おしゃべりだった者、悲しみに暮れた者、・・・。これらの霊たちは、憑依された者の肉体を使って自分を表現する。状況に応じて、あるいは霊どうしの力関係によって、どの人格が現れるかが左右される。
「多重人格」の悩みを持つ人々が、いくつもの人格と共存せざるを得ない状況から解放されるには、虐待によって受けた心の傷を癒すこと(その詳細についてここでは述べない)、愛される喜びを知ることによって、心と体の調和をはかることが必要である。そういう自分を分かってくれる人、そういう自分を受け入れてくれる人が側にいることが、癒される第一歩となろう。
○「少年」になり代わった憑依霊は、求められるまま、促されるままに“供述”する。もちろん口を動かし、言葉を発しているのはA少年である。しかしそうさせているのは憑依霊の意識である。憑依霊にとって“大げさに言うこと”は手慣れたことであり、ありそうもないことをそうであるかのように言うのも、していないことを「した」と言うのも、何の躊躇もない。
弁護士とのやりとりで、あるいは鑑定医とのやりとりで、淡々と、何の感情も交えず、しかもすらすらと返答できても何の不思議もない。憑依霊には相手の心の状態、その時抱く気持ちなどが分かるのだし、自分の発言で(実際は少年がしゃべる)相手の心が動くのがおもしろくもあるのだ。
少年の心を占領してからは、自分はもうひとりぼっちではない。注目され、観察され、驚かれている。と同時にそれぞれの大人たちのずるさ、尊大さ、怯え、自己防衛というたくさんの“かげり”を見るのもおもしろい。皆がそれぞれに、自分たちのことばかり考えている。「自分と“同じ”だ。少しも立派なんかじゃない。みんな恐れている。いろんなことを。」彼は少年の肉体を使って自分を表現する。大人たちに対して。
○少年の両親は最も大きな「衝撃」を受けた。何も分からず、何も考えられなくなるほどの。逮捕の報を受けた時だけでなく、初めて少年と面会がかなった時にも、である。彼らは“自分たちの心”をすっかり失うほど打ちひしがれたのだ。わずかに残った心は「迎合」であり「守ること」しかなかった。残された者たちを、残された自分たちを。本当ならば「絶対に我が子を信じる。」と主張するはずの心の人である。しかし、そうはできなかったのだ。あまりの衝撃とその後の絶望は、この人たちの心の力を萎えさせてしまったばかりでなく、つらい現実に迎合し、自分たち残された者を守ることしかできなくなったのだ。もちろん彼らも憑依による影響はまぬがれなかった。「全く動かない心、とまったままの心」の憑依霊と強く共鳴してしまったのだ。信じる心・意欲が湧いてこないのもそのためである。何とかするために自分たちが動き回り、手を尽くそう、人に頼もう・・・とはできないのもその影響による。彼らを支え、励まし、慰める者たちはいても、皆が衝撃の大きさの影響下にあり、「事実を見ようとする目」を奪われてしまっていたのである。
○警察による“意図的な”偽犯人逮捕が、ここまで受け入れられ、定着してしまったのは、それが巧みだったからではなく、以上のような霊的影響によるところが大きいのだと言える。
誰にでも、多かれ少なかれ、「それは本当なのか?」と確かめようとする意識がある。それが強ければ、さらに真実を追求しようとする姿勢となり、真実だとの確信が持てればそれに基づいた発言・行動にもつながっていくだろう。
「本当のこと」とは本来、誰にとっても嬉しいはずのことなのである。しかし、それを隠蔽した者にとっては脅威となり、恐れとなってしまう。「本当のこと」に全く触れることなく、偽物を本物と思い込まされたままでは、人の心は救われはしない。
○少年に対して、あるいは少年の両親に対して、周囲や世間の者たちが向けてしまった目、抱いてしまった気持ちはどういうものだったか。あの子ならやりかねない、前から変だと思っていた、何という恐ろしい子供か、厳罰に処すべきだ、戻って来られるのは嫌だ・・・。育て方が悪かったに違いない、母親のせいだ、父親不在だから、本当に悪いと思っているのか、・・・。
ほとんどの人々は「少年が犯人」だということを疑うことはなかった。そして、それまで味わった恐怖心や嫌悪感、苛立ち、被害児童への思いなどをとり混ぜて、少年とその家族に向けたのである。否定・批判・非難・攻撃・排除の心を。
もちろん、少年やその家族に対して同情の気持ちや、心の傷の回復を思ってあげることのできた人々、支えや励ましを向けてくれた人々はいたであろう。しかし彼らもまた「少年が犯人」という前提では同じなのである。
○少年は無実のはずだ。彼には犯行は無理だ。彼を信じよう。そういった目で彼を見、言葉をかけ続けることのできる者がいたとすれば、それは弁護士のはずであった。しかし残念なことに、少年の“態度”が彼らの理解を越えるものであったし、彼が「自白」を覆さない限り、「彼が犯人」を前提とするしかなかったのである。しかしながら、事実を検証・検討していくことで、「たとえ少年がどう言っていても、彼には犯行は無理、論理的な矛盾がある」等、争点はいくつでも見出せたはずである。何より「事実」を重んじなければならないのが、彼ら弁護士なのだから。
同様の視点からひとつ加えるならば、裁判官にもそれが当てはまる。限られた時間、限られた情報であったとしても、そこから真実への端緒をたぐり寄せることはできたはず。事件の重大性・特殊性から見ても、その力量を最大限発揮して、公平公正、そして論理性と客観性を貫いたうえでの「判断」が求められたはず。明らかに作り上げられた「供述調書」(読んだ者なら“作文”と分かるだろう)をもとにして、「判断」をくだしても、根拠とするところに真実がなければその「判断」も誤ったものとなる。
○「法的な決着」が“一応”なされてしまったからと言って、それでこの事件が解決したことにはならない。この「作り上げられた決着」は、本当の解決によって解消されなければならない。「今さらどうしようもない」では済まされないのだ。
少年とその家族の人生がかかっている。
しかし、それだけの意味ではない。実に多くの人々が犯してしまった過ち――それが意図的であろうとなかろうと――を、そのままにしておくべきではないのである。
犯した過ちについては、意図的・意識的だった者たちは、まずそれを認めるほかない。認めたうえで詫びなければならない。少年とその家族に対してのみならず、人々全体に対しても。それは「仕方がなかった」では終わらない。
同じように、事実に気づきながらもそれを明らかにしなかったり、伝えなかったり、敢えて公にしなかった者たちも、すべきことは同じである。知りながらそうしたことの責任は重い。
そして最後に、直接的に少年やその家族に関わらなかったとしても、彼らに向けた目や、抱いた心に“至らなさ”を持つ全ての人々。いわゆる世間一般の者たちは、彼らに対して申し訳ないことをしたという気持ちから始めて、彼らが「自分の心」を取り戻し、「自分の人生」を歩み直すよう、そしてそれを自分たちも心から応援しようという気持ちを向けていってほしい。「もしも機会があって言葉を交わすことがあるならば、励ましやねぎらいの気持ちを伝えよう」と思ってほしい。「もしも視線を合わすことがあったなら、その時は温かく微笑もう」と思ってほしい。自分にそういう機会はないに決っているなどとは思わずに。
○少年の家族は、自分たちが存在することすら申し訳ないという気持ちで、ひっそりと目を伏せて暮らしている。あなた方のすぐ近くにいないとは限らず、何かを共にしないとも限らないのだから。
世間一般の人々がそういう心で少年とその家族を思うならば、彼らに向けられる心のエネルギーが共鳴し、彼らに影響が及ぶだけでなく、この国全体の雰囲気が変わるだろう。なぜなら、今、世の中で横行している「心のありよう」は、「少しでも自分の有利に」「本当のことを隠してでも」「自分たちの都合に合わせて言葉を遣う、嘘もつく」といったもの。自分たちの過ちを認めたり、素直に詫びて改めたりする姿勢とは程遠い。しかし、人々全体が今回の事件を契機に、そういった心を強く共鳴させれば、横行している「心のありよう」も変わっていくに違いない。これはとても大きな希望であり、この希望は社会を変えていく源、社会を救っていく力なのである。
○少年は今、「そういった動きがいずれ広まっていく」などということを思いもしていない。自分の無実を主張したり、信じたり、伝え広めようとしている人々がいることも知らない。依然として、自分だけ(しかも自分の心を失ったままの状態)の世界にひとりでいる。
何かを強く求めたり、特に興味を惹かれたり、大きく心を動かしたり(感動したり)という様子はあまり見うけられないだろう。淡々と日常をこなしている。しかし、一定の関わりを持った者との間では笑顔や表情の変化、言葉数の増加はあるはず。けれどもそれもある程度心を許したかに見える範囲を越えはしない。なぜなら、彼の心には人を信じることのできない傷が深く残っているからである。自分の気持ちを表現したり訴えたりすることがほとんどないのは、その傷がもとになっている。
自分の存在をなくしてしまいたいと思う程、苦しく辛く恐ろしい思い――取調べ――は、彼にとって、もう二度と味わいたくないもの。思い出したくもないもの。それは、なかったことにしてしまいたいくらい怖くて嫌なもの。その時の恐怖や絶望を心に蘇らせることは絶対にしたくないはず。辛い体験(虐待・戦争体験・事故…)をした人がその時のことを口にできず、また思い出そうともそうできない位の怯えを持ってしまうのと同じである。その時のことは、忘れてしまいたい。そうすれば楽になる。その時に比べれば、今の方がずっとずっといい。
そして、この先のことを思えば、今の状態でいる方がいい。人からの攻撃・排除・非難・否定の心を向けられずにすむ。今、ここにいれば。
だから敢えて“今の状況”を変えたい、変えようとは意志できない、意志しないのだ。「身の潔白」を主張することは今の安定を自分から崩すこと。再び、あの時と同じ思いを味わわねばならなくなること。そんな思いをするくらいなら、今の状態でいよう。それでいい。それがいい。そうしたい。
よって、今の彼は“静か”なのである。あきらめや絶望だけでなく、今の安定を何とか守ろうとしているのである。
しかしそれが、彼にとって、本当に幸せなことだなどと、誰も思わないはずである。辛く苦しい思いから逃れるため、それを二度と味わわないために、彼は真実を訴えることもできず、彼の自由と人生とを差し出したままなのだから。
○彼が人から向けられる心を敏感に感じ取るなかで孤独感を深めていったのと同じように、「同じ心を持つ者がいない」という寂しさ・孤独感・孤立感を持つ者は確かにいる、と伝えた。彼らは皆、心優しい者ばかり。優しくないからこそ力を振るうことのできる者たちが幅をきかせる世の中には、なじんでいけるはずもない。
ある者は反発によって、ある者は回避によって、ある者は無気力によってというように、「社会」に適応しない形か、そうでなければ自らの心や体を病むという形によって、ようやく自分の心を守っている。彼らには「分かってもらえる喜び」がない。「自分は他の人のようにはできない(なれない)」という思いが強い。自信をなくしている。 しかし、彼らこそ、人が持つべき本来の心を有している者たちなのである。その彼らがA少年の心、置かれた状況、そして今を知った時、最も深く共感できることは間違いない。
○社会や大人たちは、A少年をはじめとして、このような柔らかな心を持つ者たちを踏みつけにしてはならないのである。社会や大人たちが、その人の持つ「心」をこそもっと見ようとしなければ、今、社会にあふれている「問題」を解決することはできはしない。
人の心をもっとわかっていこうとする姿勢、人の痛みを分かち、人にもたらされた喜びを共に喜ぶ心、表面には出てこない優しさや思いやりを大きく評価し認めようとする態度、それがあれば、社会に生きる誰もが、孤立したり孤独感を味わうことなくいられる。これは決して遠回りなことではない。今すぐに始められることなのだ。あなた方さえその気になれば。世の中が変わる、とは、人の心のありようが変わるということ。つまりは、この国に生きる人々の心ひとつでいかようにも「社会」は変えられるのである。人と人とが心を通わせ、対等に、しかもおおらかに生きられる。それは決して“遠大な目標”などではないのだ。
○今回の事件は、人の心に生ずるさまざまな“かげり”が集積され、形をなしたものだと言える。嘘・偽り・責任逃れ・作為・噂話・先入観・偏見・否定・非難・排除・無礼・横暴・無視・無関心・興味本位・過ちを認めない・詫びない・いじわる・悪意・・・。そして何よりもさまざまな「恐れ」。
それらの“かげり”を越えるのも、人の心に生ずるさまざまな“光”なのだ。まずは、「真実」という、何ものにも覆い隠すことのできない光が必要である。「本当のこと」を目にし、耳にすれば、人の心は必ず動くのである。それが共感であり、意欲であり、協調・協力・救済・努力・尽力・あきらめないこと・希望・願い・祈り・・・である。
多くの人々が「真実」の光に触れ、心を動かすことを。
多くの人々がその心を言葉と行動に反映させてくれることを。
過ちや偽りも謝罪と償いに変わることを。
そして何より、少年とその家族に、失われた喜びがそれ以上の幸せを伴って再び取り戻されることを。
この事件をきっかけにして人々の心に、人としての優しさと正しさとが取り戻されることを。
飯沼 正晴
堀江 克子